七夕に関する諸説

コラム

七夕はロマンあふれるイベントとして今や日本では欠かせない行事の1つです。
そもそも本来七夕は中国の古来の話しなんですよね。
今回は1年に1度のイベント七夕にスポット当てて書いていきたいと思います。

物語

 

その昔、天の川のそばには神様が住んでいました。神様には、一人の娘がいました。名を織姫と言い、織姫は機を織って、神様たちの着物を作る仕事をしていました。

織姫がやがて年頃になり、神様は娘に、御婿さんをむかえてやろうと思い、色々探して見つけたのが、天の川の岸で牛を飼っている、彦星という若者です。

彦星は、とても立派な若者でした。織姫も、すごく美しい娘です。二人は相手を一目見ただけで、好きになり二人は結婚し楽しい生活を送るようになりました。

でも、仲が良過ぎるのも困りもので、二人は仕事を忘れて、遊んでばかりいるようになったのです。すると、神様のもとへ、皆が文句を言いに来るようになりました。

「織姫が機織りをしないので、皆の着物が古くてボロボロです。早く新しい着物を作って下さい」「彦星が世話をしないので、牛たちが病気になってしまいます」神様は、すっかり怒ってしまい「二人は天の川の、東と西に別れて暮らすがよい」と、言って、織姫と彦星を、別れ別れにしたのです。

でも天の神様は、織姫があまりにも悲しそうにしているのと仕事に身が入らない為、これを見て、「一年に一度だけ、七月七日の夜だけ、彦星と会ってもよろしい」 それから、一年に一度会える日だけを楽しみにして、織姫は毎日、一生懸命に機を織りました。

天の川の向こうの彦星も、天の牛を飼う仕事に精を出しました。そして、待ちに待った七月七日の夜、織姫は天の川を渡って、彦星の所へ会いに行きます。とこのような物語なんです。

催涙雨

この時期は雨が降ると天の川の水かさが増し織姫が彦星に会えない為に、この日に降る雨を催涙雨という。織姫、彦星が無念で流す涙を例えたものと言われている。

意外なお話し

地方によって諸説があり、七夕の夜、少しでも雨が降れば二人は会えないと伝えるところもあれば、雨でも二人は出会える、雨はおりひめのうれし涙で雨の水でけがれが洗われるなどとするところもあります。

いっぽう、二人が会えば疫病がはやるとして、会わないように雨を願うところもありました。
昔は七夕は旧暦の七月七日(八月十二日ごろ)に行われていたため、干ばつに苦しんでいた地方の人々が雨を願った、という話しもあるようです。

七夕の由来

七夕のお話しは、冒頭でも述べたように中国由来のお話しでいくつかの諸説、書籍が残っているんです。ではなぜ中国のお話しが日本に来て今のようなお祭りとして根付いているのでしょうか?

中国での七夕の歴史

織女と牽牛の伝説は『文選』の中の漢の時代に編纂された「古詩十九首」が文献として初出とされているが、まだ7月7日との関わりは明白になってない。

一方、『西京雑記』には、前漢の采女が七月七日に七針に糸を通すという乞巧奠の風習が記されているが、織女については書かれていない。

その後、南北朝時代の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれており、7月7日に行われた乞巧奠(きこうでん)と織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。

また六朝・梁代の殷芸(いんうん)が著した『小説』には、「天の河の東に織女有り、天帝の女なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」

これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている

日本のでの七夕の歴史

日本の「たなばた」は、奈良時代に伝わり元来、中国での行事であった七夕が元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の諸説と合わさって生まれたものみたいである。

乞巧奠(きこうでん)は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い、7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。古くは『荊楚歳時記』に見え、唐の玄宗のときは盛んに行われた。この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた。二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女子が当然身につけておくべき技能であった訳ではない。

七夕飾りや短冊の由来は?

元々は5色の糸を奉り機織りや裁縫が上手になりますように祈願したのが始まりである。

織姫は機織りや裁縫などの象徴とされており上達祈願の為に行われた行事なんです。
5色の糸が布に替わり江戸時代に貴族たちが短歌を書くための短冊に願い事を書いたことが大元で、時代が流れるにつれて形を変え、江戸時代には詩歌や手習いの上達を願うようになったという感じで諸説があります。

短冊の五色は中国から伝わった陰陽五行説に由来し
「青=礼」(昔は緑)人間力、安心や信頼などを表す。自信を高める願いを書くときに。
「赤=仁」決断の色、感謝などを表す。前向きな願いを書くときに。
「白=義」厳守の色、人間関係を幸せにする願いを書くときに。
「黄=智」友情や人間関係の向上の願いや、お金に関する願いを書くときに。
「紫=信」(昔は黒)学問系の色、学問の向上の願いを書くときに。
を表しているそうで、願い事の内容によって色を決めればより願いが叶いやすくなると言われてます。

なお紫は風水上強い力を持つため黒より紫が使われている。あと祝い事には黒は不向きの為、黒が使われなくなった理由である。

あと色の短冊の裏には白色が多く使われているのは色の力を強める効果がある為、短冊の裏は白色が多いのは理にかなっているそうである。

竹に飾るのは丈夫で不思議な力を持つとされること、竹は成長するにあたり天まで届く勢いで成長する為、願いが届きやすいなど、それぞれにちゃんと意味があるみたいです。

七夕まつりの飾りもこれらを意識して見てみるとより楽しめそうです。
時代と共に進化していった風習も、流行を取り入れた七夕飾りに繋がっているのかもしれませんね。

最後に

今回「七夕に関する諸説」について書きました。
短冊の願いを書く事は、言い切りの形で書く!というのが良いみたいです。書く事により実現すると願い、成るのだと強い意志をもつ事が必要。書いたらそれに伴い行動し、そのために努力する。神さまも頑張る人には微笑むと思うので。

では皆さん良い七夕を



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