どうもるんるんです。桜の花を見て楽しむ季節が来ました。春は人を開放的にする季節だそうです。段々暖かくなり外に出て何かをしたくなるのが人の心理みたい。
確かに寒ければ外にも出たくないし理解ができますよね。
花見の歴史は昨日書いておりましたので良ければ見てみてください。
花見の由来、花見にまつわるetc
本日は日本はなぜソメイヨシノが支流になっているのか?その辺を書いて行こうと思います。
なぜソメイヨシノという名前になったのか
今でこそソメイヨシノと呼ばれているが江戸時代から明治時代にかけて吉野桜とよばれていて親しみがあった。
奈良県にある吉野山に咲くおよそ3万本の桜が有名で、1000年以上も前から桜の名所、吉野というのが桜のブランドでそこから吉野桜と名前を付け広まったらしい。
武江産物志(ぶこうさんぶつし)
江戸時代の名産を記録した資料にも書き方が違えど記載されて『上野 芳野櫻』江戸の名物として世間に広まっている。
しかし明治時代東京で親しまれていた桜は吉野山に咲く桜とは違う種類だったため明治33年(1900年)
東京に咲く桜を吉野桜と名乗れなくなった。なぜそれがわかったのか。吉野山に咲く桜は『ヤマザクラ』といい花と葉が一緒にひらく一方東京に咲いていた吉野桜は花が咲いた後に葉がひらくこの事から間違い(混同)を避けるため名乗れなくなった。
染井村から全国に
現在の東京駒込め付近にあった染井村は江戸時代から明治時代植木職人が多く住んでいた為、園芸の優れた有名な村だった。
明治5年から鉄道が配備され交通の便が良くなり郵便事情が活発になりました。明治9年日本で初の通販が始まりました。それにより全国で東京から色々な品物を取り寄せることが可能になりました。
代價目録(代価目録・だいかもくろく)
今で言う通販カタログみたいな物で、染井の桜を代価目録で出していたらしく明治時代、東京中心の国作りとしていた為、時代の最先端である東京のあこがれは強く東京にあるものを自分達の村の許にと染井の桜(東京にある桜)を代価目録で注文し植林していったために全国で染井の桜が多くなったといわれる。
染井村から広まったため染井の吉野桜となり染井吉野からソメイヨシノとなった。
最初は1本だったソメイヨシノ
最初は1本から始まったソメイヨシノ、染井村の植木職人が種子で増やすと親の形質を必ずしも子に伝わることがないため、ソメイヨシノというすぐれた形質を残し増やす為、接木もしくは挿し木などの栄養繁殖の方法をとり全国に広めていったのが始まり。
その為開花条件がそろうと一斉に咲くため桜前線という言葉が出来た。
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